1:25000地図を利用し浦賀地区の変遷を見る

2020年07月13日

どうも、えとろぴです。

今回は地元横須賀市浦賀地区の1:25000地図を時期別に三枚利用し、変遷を見ていきます。

色の塗り分けとしては、

茶…山地、森林

緑…水田

黄色…畑、耕作地

ピンク…果樹園

水色…川

紫…工場

で統一してます。

1.  昭和22年(1947年)から昭和41年(1966年)での変化

まず、平作川の河口部に存在した内川入江やその周辺にあった湿地帯の干拓について見ていきたい。 実際にこの時期の干拓についての情報は得ることができなかったが、この干拓は、万治年間から始まった、大阪の砂村新左衛門による平作川中下流域の干拓に由来を持つだろう。江戸期に行われた砂村による干拓は、水門が何度も壊されるほどの難工事だったと伝えられ、江戸期の新田開発の事業のうちの一つとして行われたものである。さらに、その後の展開としてこの地域は工場が進出していることが読み取れる。これは、新田の跡地ということもあり、地価が低いと推定されるのに加え、高度経済成長の中で東京大都市圏の成長を支えるためのものと考えていいだろう。また、内川という地名については、大川、吉井川、佐原川の従来走っていた3つの河川がこの開発により合流することになり、その合流域を内川と呼ぶことになったことに由来する。

次に注目したのは、浦賀の集落の発展速度と、久里浜の集落の発展速度の違いについてである。もとより、リアス海岸の地形である三浦半島東岸において、浦賀は佐世保や舞鶴のように天然の良港として、昭和22年の地図において船舶関連の会社が複数見えるように、浦賀ドックを始めとした船舶業で発展しており、横須賀市東部の中心的な存在であった。また、赤丸で囲った神社仏閣の立地からも過去、古い年代では浦賀の方がこの地域では中心であったと推測される。しかしながら、昭和41年の地図では、久里浜の方が大きな町域をもつように成長を遂げていることが伺える。この理由として、大きく分けて2つあると考えた。1つ目の理由は交通アクセスである。久里浜は私鉄の京浜急行、JRと2路線が利用可能な町であり、1966年には三浦半島南部の中心都市の1つである、三浦海岸までが延伸したことで、三浦半島の中で広域的な町へと重要度が高まったことがあり、発展度合いが大きくなっているのだろうと予想される。逆に、浦賀には京浜急行のみが走っている。2つ目に考えられるのは、土地の広さである。この要因は、先にも述べた、三浦半島の東部はリアス海岸であるということに起因する。浦賀の周辺部を実際に地図で見てみると、湾の周上に密集して民家や寺院、神社が立地していることが分かる。海岸線から離れてすぐに等高線の密な山がちな地形に変化している。この地形のまま浦賀がこれ以上に発展するのは非常に難しい。対して久里浜は平作川周辺の新田地域からなる平野が広がっており、開発の余地がまだまだ残されている。このため、優先して開発されるのが久里浜だというのは自然なことであろう。

また、JR横須賀線の久里浜港への引き込み線が無くなっていることが地図から読み取れる。この理由はもともと軍事路線として開業した国鉄の横須賀線は軍事施設や港へのアクセスとしての鉄道であった。久里浜には、海軍通信学校、海軍軍需部の倉庫、久里浜防備隊などの軍事施設が置かれていた。久里浜は拡大する横須賀軍港の副軍港として整備されていたのである。戦後になって、軍事利用が無くなることで、港湾部への線路を維持する必要がなくなったためだと思われる。実際に久里浜駅側から廃線になっている方向を見てみると、線路は途中まで、まだ残っていることが確認できる。ここの線路は、現在、深夜の時間帯に留置線として利用されているようである。結果論にはなってしまうが、この線路の終点付近には、平成22年の地図を見ればわかるように、東京湾を挟んで反対側の、千葉県富津市への定期フェリー船が出ていて、このフェリーに乗るためには、久里浜駅からバスで向かうのが主流となっているが、もし線路が残っていれば、久里浜港あたりに駅を整備して、フェリーの乗客のための路線として活躍できていたのではないだろうか、と思った。この線路について調べてみると、詳しい情報はほとんど無かったが、やはり軍施設の一部である倉庫群の中を通っていたり、各倉庫への引き込み線も存在していたそうである。また、地図上でも軌道に沿って道が整備されているのもわかった。


2. 昭和41年(1966年)から平成22年(2010年)での変化

YRP(横須賀リサーチパーク)が丘陵部を切り開き、完成されている。この地域は特に、電子通信機器を扱うNTTを始めとしたメーカーの研究所として利用されているようで、私の出身高校と連携も行なったり、地域の中の研究所という印象を受ける地域だった。横須賀リサーチパークは、京大の郊外移転と同様な研究機関の元あった場所が手狭になったためという理由なのだろうと推測される。

一番わかりやすい変化は、山がちな地形が切り開かれて、住宅地へ変化したことであろう。この現象は、同時期の千葉県の習志野市とも似ている。横須賀市の場合、より勾配が急な坂が多いことが地図からも確認できる。一枚目、二枚目の地図でよく分かるように、この地域では、谷戸と呼ばれる、複雑に山の中へ入り組んだ土地に水田が作られていた。この谷戸における田んぼはこの横須賀東部地域では激減したが、地名にはその名残が出ている。この地名は現在の地図に出るレベルの地名としてよりは、一枚目の地図で赤丸で囲んであるような、「谷戸武」、「大谷(おおやと)」、「岩戸」、「小矢ヶ谷戸」など、比較的小さな範囲を示す地名で残っている。住宅地への変化は、郊外へ住宅地を求める動きがあった際に全国的に高まった機運の産物だと考えられる。なお現在、横須賀市の人口流出は全国的にみても凄まじい速度で進んでいる。この背景には、先ほどの昔の谷戸が目立つ地形が点在し、そのため坂の数はとても多く、勾配もきつく、高齢者や、足腰の弱い人には大変であるというものがある。横須賀市もこのままだと、多摩ニュータウンの二の舞を踏むことになるのだろうか。

参考

https://tokyowanyosai.com/sub/kai/kuririn.html

https://sorairo-net.com/rekishi/yokosuka/uchikawashinden/

谷戸の写真(筆者撮影)

以上です。このように変遷を見てみると面白いことも多く見つかりますね。

ぜひ皆さんも昔の地図と今の地図、見比べてみてはいかがでしょうか。

それでは。

© 2020 mazaing
Powered by Webnode
無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう